消失に潜む

誰かの失われた記憶のなかに私は立っている。其処は煤けたマンションの一室で、襤褸の赤錆色のソファと傷だらけの机と背凭れの壊れた回転椅子、簡素で古びた本棚があるだけのごくささやかな部屋で、住人の気配や匂いといったものは特に感じられない。時折きしりと床が鳴る以外に音らしい音もない。時計がないので正確な時刻もわからない。
さて、此処で何をすればいいのか。依頼主から手渡されたメモには「下記の指定場所で待機して下さい」としか書かれておらず、行動指定欄は空白のままだった。指定場所は此処、到着したのは昼過ぎで、今はだいたい誰そ彼時。果たして夜明けまでに帰路につけるのか、それだけが心配だった*1
どこからか流入してくる香の匂いに気づいた時、窓の外はもう暗く、窓際に寄ると眼下を流れる車とコンビニエンスストアの前でたむろする数人の若者の姿が確認できた(が、やはり外界の音は室内には一切届かない)。やはり窓一枚隔てた"向こう側"は通常運転なんだな、毎度のこと*2とはいえ視覚情報に異常が無いのはいっそ異常だと自らの脳髄を疑い始めた頃、漸く「待機」する理由であり私が保護すべき対象である「記憶」がふらりとやってきて、襤褸に全身を預けるようにして着席した。デニムのショートパンツ、白いキャミソール、左右非対称の髪とマリリン・マンソンふうのオッドアイ。胸は豊かで脚の肉付きも良い。端的に云ってそれは大層魅力的な姿をした「記憶」だった。
少し迷ったが、「記憶」というのはとかく儚いものであるということを思い出し、潔く声をかけることにする。
「今晩は」
見目の良いその「記憶」はちらりとこちらを見、予想よりも2オクターブほど高い声でそっと応える。
「今晩は」
よかった、話は通じるようだ。これなら落とすのにそう時間はかからないだろう。私は自分の職業と姓を「記憶」に伝える。
「初めまして、私、便利屋を営んでおります九野と申します。この部屋の『鍵』はご依頼主様よりお借りしました」
ついでに部屋にいる理由についての説明も加えておく。このひと手間を省くと後程苦情の処理に追われることになるので。「記憶」は一拍置いて無言で頷き、その依頼主というのは、と左右で色彩の異なる眼を真っ直ぐこちらへ向けてくる。
「仔細は不明なのですが、ご依頼主様は未だあなたの幻影を追い続け、その結果ご自身のご家庭を崩壊させてしまったそうで」
反応は無い。なんとなくだが、この「記憶」はこうしたことに慣れているのではないかという気がした。徹底した無表情。それこそ「記憶」という概念そのものなのでは、と対峙する者に思わせるような。
私はといえば慣れない敬語に辟易し、やはり自分は仕事をするのに向いていない、特に接客は、などと考えていた。視点は「記憶」に固定していたが、意識はやや分散している状態だった。
そこにつけこまれた。
どん、と何か重いものを壁に叩きつけるような音がして、なんだ、と思った時には「記憶」が私の内部に侵入していた。「記憶」は肺(何故そう思ったかはわからないがとにかく肺だと思った)の辺りから私の不手際を笑い、そして云った。
「◼︎◼︎*3、あなたみたいな壊れた人、大好き。ねえ、わたし何も悪いことしてないよ。その、依頼主? ●●*4が勝手にわたしに夢中になって、◼︎◼︎、浮気する人は嫌いだからあんた嫌いってちゃんと云ったのに。まだ◼︎◼︎のこと好きなんだね。ああやだ、醜い。死ねばいいのに」


玄関の扉をノックする音が聞こえる。

*1:私には生活費を賄ってくれる歳下の同居人がおり、それがひどい寂しがり屋で場合によっては不安が高じて死んでしまうかもしれないので出来るだけ早く家に戻りたかった

*2:この夢における私はどうも日常的に境界を跨いでしまう性質を持った人間であるらしく、それ故に他者の記憶にお邪魔することができるようだった

*3:「記憶」の名。憶えていない

*4:依頼主の名。やはり憶えていない